友達と居酒屋に居る時にみんなの趣味の話になった。
僕は日帰り登山を一人でやることが多いんだけど、
みんなこの”一人”という部分が気になる様子。
運動嫌いからは、
登山なんて何が楽しいの?
陽キャからは、
みんなで登った方が楽しい
出不精からは、
わざわざ遠出しなくても
なんて様々な意見が。
なるほどなるほど分かるよ。
よ~し、じゃいまからおじさんが思う単独日帰り登山をする理由を三つほどお伝えしよう。
もくじ
一つ目の理由:独立心を養う
人間は集団で生活する生き物なので、
生きていくうえで何かしらの組織に属することになる。
それは、家族だったり、学校だったり、会社だったり。
属する組織が大きくなればなるほど、個人で決断する機会は減っていき窮屈さを強いられる。
その分、組織は守ってくれるけどね。
守ってくれるからだんだんと甘えが生まれてくる。
仕事やバイトでミスしても先輩や上司がしりぬぐいをしている。
次はミスしないようにしようと思うけど、必死までにはならない。
決断を他人に任せ、組織の加護を受け、少し窮屈だけど、安全な揺り籠の中の生活。
その堕落したあたりまえをどこかで見直さなければならない。
そこで一人登山!
準備も一人で行い、当日も一人で登る。
分岐があったら指示してくれる人がいないから自分で考える。
迷っても誰も助けてくれないから必死になる。
下手したら死ぬから万全に準備する。
脳みその普段使わない部位をフル回転させ、
運動不足の身体に鞭打ち山を登る。
全てを自分が制御することの不安と、
誰も助けてくれない孤独。
それでも勇気をもって前に進み続ける。
決断の連続を経て、ついに下山する。
その時の達成感。
一人でやり遂げたことの成功体験。
こういった体験を一人登山することで再認識できるのだ。
二つ目の理由:死生観
本当の寿命ではなく、個人や世論が認識する寿命『認識寿命』によって精神年齢の成熟さが変わるらしい。
江戸時代の平均寿命が50歳、
現在の平均寿命が80歳
だとすると、25歳の時の残りの人生の考え方にも差がうまれる。
ましてや、
今よりも病気における死も身近だったし、
戦争で死ぬこともあった。
さらには投獄の末、拷問で死ぬこともある。
文明が発展し、
法治国家の現在では考えられないことだらけ。
そういった生活から死が遠ざかり、
ただ生きているだけの状況が生まれてきたのだと思う。
日常生活において死を少しでも感じられる瞬間はどこか?
そこで一人登山!
難所で足を滑らした時の恐怖、
道に迷って、日が暮れてきた時の不安。
そして、無事下山したときの安堵。
死の濃度を上げる事によって、生きている瞬間を感じられる。
三つ目の理由:日常(文明)に感謝する
日常、当たり前になっていることってないですか?
温度管理された部屋でも不満を言ったり、
人との会話が億劫になったり、
ちょっとしたことでイラついたり。
本当はありがたいのかも・・・?
そこで一人登山!
日常や文明から一端距離を置くことで、様々なことが再認識できる。
真冬の山から下りてきて車の暖房の温かさ。
整備された道の歩きやすさ。
誰ともすれ違わず、下山した先のコンビニ店員の一言。
人口建造物の安心感。
一晩野宿すれば、布団のありがたさも身に染みる。
あたりまえを再認識し、感謝の心が芽生える。
総評
以上、僕が日帰り登山をする三つの事柄でした。
正直、登山は金もかかる、
時間もかかる、
暑いし、
寒いし
疲れるし、
辛いし、
危険だからからやりたくないんだよね。
でもしばらくするとまた登りたくなる。
それは、上記の三つを再認識したいからなんだろうな。
もっと楽な代替案があればな~
俺もな~そんなに登らないんだけどな~