小説『夜のピクニック(恩田陸 著)』の感想レビュー。
全校生徒が80kmを歩くだけの苦行行事なのに、
僕の青春レーダーがこんなに反応するなんて・・・
僕はね、どんな言葉にも『夜の』ってつけるとスケベになると思っている汚れちまった人間ですよ・・・
特に学校関係の単語とはとても相性が良い。
夜の保健室
夜の運動会
夜のチンピクニック
うひょーこれだけで前かがみになっちゃう。
下ネタのボキャブラリーと耐性は中学生並みだよ!
けどね、夜のピクニックは違うんだ。
もくじ
あらすじ
全校生徒が夜を徹し24時間かけて80kmを歩く北高の伝統行事「歩行祭」。
3年の甲田貴子は自分の中で賭けをした。
それは、クラスメイトの西脇融に声を掛けるということ。
お互いを異母兄妹だと認識している貴子と融は牽制し合っていて、
一度も会話をしたことがなかった。
一言でも会話できれば何かが変わるのではないか?
学校生活の思い出や卒業後の夢など語らいつつ、親友たちと歩きながらも、
貴子は賭けのチャンスを伺っていた。
そんな中、学校生活で不自然な二人を恋心からきていると誤解しているクラスメイトは、
歩行最中に貴子と融との接点をもたせようとあれやこれやと暗躍して・・・
作品のモデル
著者 恩田陸先生の母校『茨城県立水戸第一高等学校』
に実際にある『歩く会』
夜のピクニックは80kmだけど、実際は70kmの模様。
10月第二週の土日に実施。完走率は90%以上!
一時期、死亡事故により歩く会自体が無くなりかけたけど、
生徒たちの反対があって今も継続されている。
”生徒たちの反対”ってのがいいよね。
実際の動画↓
歩行祭前編
歩行祭後編
感想
北高では修学旅行の代わりに行われている『歩行祭』。
仮眠はあるものの夜通し24時間かけて80kmを歩くかなりつらい行事。
なのに、卒業生たちは口を揃えて修学旅行より歩行祭の方が良いという。
分かる!分かるなぁ。
高校の修学旅行の記憶って殆ど無いわ。京都、大阪行ったってことくらい。
それよりも、部活で努力したとかそういう辛い思い出の方が記憶に残ってる。
振り返ると、なぜか美化されているんだよな。不思議。
そんな苦行を行う本編は、
西脇融(にしわき とおる)と、
甲田貴子(こうだ たかこ)。
二人は、西脇父が甲田母と浮気した形の異母兄妹。
そんな二人の視点が交互に切り替わりながら歩行祭の全工程を進んでいく。
メインは歩行祭の完走。
次いで融と貴子の和解。
融と貴子は友達に恵まれているよなぁ
貴子一人じゃ融には話しかけられなかっただろうし、
融も忍が居なかったら受け入れられなかったと思う。
榊姉弟も良い味出してた。
あとは、友人たちとの会話。
特別な環境下で、疲労も溜まっていると、
素面では言えない恥ずかしいことも普通に言えちゃう。
そこに若さ(17~18歳)のエッセンスを加えることによって、甘酸っぱさは最高潮に!
こういう環境下だったら奥手な僕も恋バナとかしちゃうわ。
歩行祭のゴールと同時に本著も終わる。
自分も一緒にゴールテープを切りに行くようなな気分にさせられる。
融と貴子のわだかまりが解けてそのあとどうなっていくんだろう?
って想像の余地が残る終わり方。ええぞー。
オススメです。
本編の好きなシーン集
歩行祭が終わってしまえば、もうこのコースを歩くこともないんだな。
融は、なんだか不思議な心地になった。
当たり前のようにやっていたことが、ある日を境に当たり前でなくなる。
こんなふうにして、二度としない行為や、二度と足を踏み入れない場所が、
いつのまにか自分の後ろに積み重なっていくのだ。
「きっと、あっというまなんだろうな」
「何が?」
「ジジイになるまでさ」
忍は絆創膏を貼りながら答えた。
「ハッと気づいたら、これじゃなくて湿布なんか貼ってるんだろうな」
「本人はまだ若いつもりで、頭の中では歩行祭の絆創膏を貼っているつもりなんだ」
忍の説明は、やけに生々しく聞こえた。
夜であることに気づくのは、いつも一瞬のことだ。
それまではまだ明るい、まだ夕方だと思っていたのに、
いつのまにかその比率が逆転していることに驚く。
「なんでこの本をもっと昔、
小学校の時に読んでおかなかったんだろうって、ものすごく後悔した。
せめて中学生でもいい。十代の入り口で読んでおくべきだった。
そうすればきっと、この本は絶対に大切な本になって、
今の自分を作るための何かになっていたはずなんだ。
「他人に対する優しさが、大人の優しさなんだよねえ。
引き算の優しさ、といか」
「俺らみたいなガキの優しさって、プラスの優しさじゃん。
何かしてあげるとかさ、文字通り何かあげるとかさ。
でも、君らの場合は、何もしないでくれる優しさなんだよな。
それって、大人だと思うんだ」
時間の感覚というのは、本当に不思議だ。
あとで振り返ると一瞬なのに、その時はこんなにも長い。
一メートル歩くだけでも泣きたくなるのに、
あんなに長い距離の移動が全部繋がっていて、
同じ一分一秒の連続だったということが信じられない。
それは、ひょっとするうとこの一日だけではないのかもしれない。